八島高明の紫微斗数教室2

紫微斗数では命盤を作成したあと、判断は主にその12宮に入っている虚星の象意によって為されます。もしその宮に主要な虚星がない場合は、反対の宮にある虚星、あるいはトライン(120度)の角度をもつ左右の宮を参考にして解釈していきます。

 

この虚星の数は100を超える数がありますが、実際に重要なのは30個ほどの虚星であり、その虚星を吉星と凶星に分類して判断していきます。紫微斗数をやってみるとわかりますが、その構成じたいは西洋占星術のホロスコープの技法とかなり似ている部分があります。ただし、実在の天体を使用するのではなく、虚星を扱う点やその算出方法はまったく異なるものがありますが、たとえば12のハウスを生誕月と生誕時間を使用して計算する方法などは共通するものがあるのです。

 

紫微斗数の起源は西洋占星術か

そうした紫微斗数のシステムの構成をみると、おそらく過去において西洋占星術かインド占星術と、何等かの接触があったことが想定できます。まず外来の西洋かインドの占星術がベースとしてあり、そこに中国独自の干支説や子平(四柱推命)、奇門遁甲などのシステムを応用してその中に組み込んだと推測することができます。

 

たとえば解釈の主要部分を構成している紫微星、武曲星、天同星、天府星、太陰星、貪狼星、巨門星、破軍星といった名前をみると、過去にそうした流れがあったことは容易に想像がつくのです。内容的にみると奇門遁甲や子平(四柱推命)からの借用が多いと感じます。

 

紫微斗数の起源とは

紫微斗数は一般的には五代や宋の道士であった陳希夷(~989)をその創始者としています。陳希夷という人物は神仙術に通じた人であり、人相学や手相術の著作『神相全編』等もある実在の人物です。また宋の皇帝太宗にも召されて活躍した人物ですが、ただ彼の著作とされている『紫微斗数全書』の刊行は明代の半ば頃(1550年)と言われているので、この本が本当に彼の著作なのかは、だいぶ疑わしい面があるのは否めません。

 

これはあくまでも私の推測に過ぎませんが、明という時代(1368~1644)は西洋のキリスト教宣教師や商人などが東洋世界に押し寄せてきた時代であることを忘れてはいけないでしょう。たとえば日本にも宣教師のフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイスが訪れています。おそらくはこの頃に彼らと共に西洋の最新の知識(ホロスコープ占星術)が中国にもたらされたと推測できるのです。そして当時の中国の占術家たちがそれを学びとり、そこに従来からあった子平(四柱推命)や奇門遁甲や他の干支説などを取り入れ、オリジナルの融合占星術=紫微斗数を独自に創作したとしても、何ら不思議ではないでしょう。

 

紫微斗数は同じ中国起源の占星術である子平(四柱推命)と比較されますが、四柱推命のように王族や貴族、国家や官僚たちに用いられたエリート占術ではなく、民間の間で広がった草の根の占術と言われています。そうした流れを暗示しているように、子平(四柱推命)が陰陽五行説に基づいて理路整然と体系化されているのに比べると、紫微斗数は100を超える虚星を多数出してきて、その解釈も本宮、対宮、三合宮など幅広く多様性をもたせており、さらにその矛盾する解釈も占者まかせで幅広くできるように構成している点をみると、やはり全体としては雑然とした占術という印象を持つのは否めません。少なくとも私はそうした印象を持つのです。では、この続きは次回にやりましょう。

 

八島高明の紫微斗数教室3へ

 

 

 

2022年06月25日