八島高明の家相教室3

家相の鬼門の謎を検証する

運命学の立場から、長い間この鬼門の意味を考え続けてきましたが、私はその明確な効果を自分自身で経験したことがなく、また、他の人からそうした話を聞いたこともありません。そして過去の資料等で見ても、その明確な理由や根拠らしきものは見たことがありません。そこで私なりにこの謎を解く、一つの仮説を立ててみたいと思います。私が着目したのは、この「鬼門」という発想法が日本にのみ存在し、世界中のどこにも存在しないという点でした。

 

日本にだけ存在する鬼門とは

もし、この鬼門にそれほど重要な意味があれば、中国をはじめとする世界中にも似たような発想法があり、またそれに関する資料なども見つかるはずです。しかしそんなものはどこにもありません。他の占術で言えば、たとえば四柱推命のような天体を扱う占星術というものは西洋やイスラム世界にも存在しますし、インドにも存在します。

 

人間の本質はそう変わらないので、世界を見ても類似した占術が存在するのが一般的なのです。それは魔術的なものや呪術的なもの、あるいは神を拝む宗教なども似たような傾向があります。たとえば占術においても直感力を駆使するタロットや易断は同じジャンルに入りますし、手相術も西洋と東洋共に存在しています。しかし、この鬼門という発想法は、なぜか日本にしか存在しないのです。私はそこに何らかの重要な意味があると考えました。

 

日本の地形と鬼門の関係とは

まず、日本という国の地形を考えてみてください。すぐに気づくのは、その地形的な特殊さでしょう。日本という国は周囲をすべて海に囲まれており、さらに東北と南西に細長く伸びる地形をしています。他の国の多くは隣国と接しておりますので、日本は世界的にみても珍しい地形と言えるでしょう。

 

こうした日本の特殊な地形を見るとき、この鬼門という発想法はこの地形から生まれてきたものではないか、と思えるのです。そして地形と同じような方角となる東北を「表鬼門」といい、南西に伸びる地形と同じ方角を「裏鬼門」というのです。つまり、日本の地形と鬼門の方角が完全に一致するのです。果たしてこれは偶然なのでしょうか。

 

家相の形成された時代を考える

さて、この家相が形成された江戸時代の背景を考えて見ましょう。現在の日本は非常に平和な時代といえますが、昔はそうでもありません。実は、日本という国は明治時代になって始めて完全に統一された国家であり、それ以前の江戸時代にさかのぼると、徳川家が頂点に君臨してはいますが、徳川家といえども一大名でしかありません。

 

現在でいう「都道府県」に相当する「藩」が存在し、その藩には独自の世襲的な王(殿様)がいて、また藩独自の軍隊も所有する小国家のような体裁を成していました。ですから、もし中央政府(徳川幕府)に何か問題事が起きれば、再び日本中が戦国時代に戻る可能性もあった時代です。

 

つまり、現代日本のように完全に統一された国家ではなかったのです。もし何らかの政治的な対立が起きれば、隣にある藩が自国の藩を攻めてくるという時代でもあったのです。それは常に緊張感のある時代であり、家相はそうした時代背景の中で作られたものであることに注目する必要があるのです。

 

敵の攻めてくる方角が鬼門である

日本という国は東北と南西に細長く伸びる地形をしております。もしこの国で戦争が起きた場合、相手の攻めてくる方角というのは表鬼門である東北の方角か、あるいは反対の裏鬼門となる南西の方角となることが多いでしょう。つまり、鬼門というのは「侵略者が攻めてくる方角となりやすい」ということになります。

 

鬼門とはもともとは軍事的な発想法

こうした地形をもつ国の中に存在する小国家が自国を守ろうとする場合、大事になるのは「東北の方角」と「南西の方角」の守護ということになるでしょう。そうです、これは昔の軍事的な思考法であったと考えられるのです。「鬼門」という文字をみますと、「鬼」と「門」に分類できます。「鬼」とは「戦争などで人間性を喪失した闘争状態」を鬼とすると、「門」とはそうした人たちが出入りする場所ということになるでしょう。ですから「鬼門」というのはまさに「鬼のような人たちが出入りする場所・その方角」となるのです。

 

鬼の出入りする門=鬼門

戦国時代のような時代であれば、隣国の侵略者というのは、まさに鬼そのものです。当時の人々がそうした隣国の侵略者をいかに恐れたかは想像するに難しくありません。こうした当時の時代背景から、戦国時代頃の城塞都市を設計する段階で、東北と南西の方角の守護を厳重にする「鬼門的な発想法」が生まれてきても何ら不思議ではありません。

 

江戸時代に鬼門が歪んで伝承する

それが江戸時代の大衆社会に入り、軍事的な思考法がいつの間にか形骸化し、それが伝承的なものに変化して、いつの間にか家の中においても「鬼門を死守せよ」というな発想法に変化していったと考えるべきでしょう。当時の時代(江戸時代)はちょうど自分たちの住んでいる住環境的な意識の目覚めがあり、それが家相の始まりとなったのですが、いつの間にか古来より伝承されていた鬼門の発想法が混然一体となって、家相の中においても「鬼門を守護せよ」という思考法に変化し、それが日本中に広がっていったのかもしれません。

 

そうした時代背景があれば、なぜ日本にだけ鬼門という発想法が存在するのか、その謎も明解に解けるのです。しかし国家が完全に統一された現代において、そうした鬼門の発想法はもはや役には立ちません。東北と南西の方角を守護するのは国内にのみ通用する発想法であり、現在のように北にロシア、西に北朝鮮、南西に中国とあるような状況においては、海のある周囲全ての方角を守護する発想法が必要なのは言うまでもありません。

 

もし、これ以外に鬼門という発想法の明確な根拠や合理的な理由があれば、私も聞いてみたいものですが、そうしたものが存在しない以上、私はこれを素直に信じる気持ちにはなれないのです。いずれにせよ、現時点において、鬼門に関する明確な根拠と合理的な理由が見つからない以上、それを過度に重視することはないと思います。ただ、これも風水と同じように、最終的にはそれを信仰する人の自由に委ねられるべきなのでしょう。

 

(八島高明の家相教室了)

2022年06月09日