風水の歴史をみる
風水の歴史の起源は現在のところ定かではありません。ただ発祥地の中国では数千年も前の遺跡である殷・周(紀元前10世紀頃)の時代から、家や集落を作る際に「卜宅」(ぼくたく)という占いを行っていたと言います。
「卜」(ぼく)とは元々亀の甲羅を焼いてそのひび割れで吉凶を占う原始的な占術です。古代では占いも宗教的な儀式の一つとして扱われていました。
風水の起源として孔子や孟子の時代(春秋戦国時代)にさかのぼる説もありますが、文献として確認できるのは西晋(280ー316)の時代に活躍した郭璞(かくはく)という人物の残した『葬書』という文献です。そもそも「風水」と言う言葉は彼の著作に由来するものと言われます。
葬書にみる風水の原点とは
葬書には「気は風に乗れば散じて散る。水に隔てられれば止まる。古人は気を集めて散らさず、気を運行させて止まる。これを風水という」。
葬書には気、蔵風得水、形勢の理論、四霊(四神)説など、のちの風水の原点が記されています。のちの風水はこの葬書をもとにして江西、江南地方に広がり、のちに様々な学派が形成されて研究されるようになっていきました。
宋代(960-1279)に入ると、こうした風水の理論に占い的な要素を持つ八卦、星宿、干支などが加えられ、現在の風水占いに近い様相を帯びてきます。方位の良否を判定するために「羅盤」(らばん)と呼ばれるものも使用されるようになります。
時代が進むと、風水は「方位占い」的な学派が主流を占めるようになり、中国全土に広がっていきました。この流れが現代の方位を重視する占い的な風水につながっていると見ることができます。ただしその原点を見る限りにおいて、風水は本質的には方位占いというよりは、現代でいう環境工学に近いと言えるようです。
風水の元々の意味とは
風水の意味は「風をおさめて水を集める」ということであり、専門的には「蔵風聚水」と言います。郭璞の『葬書』には大地の持つエネルギーを利用する様々なテクニックが記されています。本来の風水とは古代の環境学とも言えるのです。中国では古来から天地自然の背後には「気」と呼ばれる未知のエネルギーがあり、その気のエネルギーが天地自然を動かすと考えてきました。
風水とはそうした天地自然に存在する気の発想法そのものを技術的に応用したもの、と考えることができます。気というエネルギーの集中する場所を山や森の中に探し、それを利用しようという環境学的な発想法なのです。
それを現代的に言えば大気や風、あるいは風光明媚な風景、あるいは地盤のしっかりとした堅固な土地、様々な好条件を満たす良い地形を整備して利用すること、そして他国の侵略に備えるためにも他の条件を加味して理想の土地を探す、そうした吉相の地を探す方法として風水が利用されてきたのです。
風水の本質ー陰宅風水とは
風水の本流としてある陰宅風水を見ると、まず気の発生する「太祖山」が重要になります。次にそこから流れる「龍」(山の尾根)がどこへ向かっているのか、そしてそれがどこで止まっているのか(穴)を探し出します。
さらにその穴のエネルギーが風で散じてしまわないように守る「砂」、さらにそのパワーを強化する「水」が重要になります。こうした全ての好条件を持つ土地を探すのが風水の本流の思想なのです。こうした理想の土地を探して利用することで、人間が本来的に持つ気の生命エネルギーをさらに強めることができると考えられているのです。
風水の四神相応とは何か
古代からよく言われる「四神相応」とは、こうした風水的な好条件を満たしている土地を言うのでしょう。北の守りである「玄武」、東の流水である「青龍」、西の道である「白虎」、南の開けた土地「朱雀」を4つの要素として都市づくりに相応しい場所を探したのです。
さらに戦争の時代である古代では、こうした四神相応の土地の多くが隣国の侵入を防ぐ「城塞都市」として形成されたのです。現代のようにミサイルや飛行機がなく、全てを徒歩や馬に頼る古代では、こうした自然の防壁のような地形を「城塞都市」として選択するのはごく当然の理でしょう。
北にある玄武は高い山であり、冬の冷たい北風を防ぐと共に侵略者の侵入を防ぎ、また砂と呼ばれる両側の守りも同様な役目を持ちます。現代のように平和な時代とは違い、常に戦争のある時代においては異国の侵略を防ぐことが何よりも重要であったのです。
こうした風水の思想は我が国の古代都市でもある京都の都市づくりにも応用されています。北と西側に丹波の山々があり、東に鈴鹿山脈があり、南側は大きく開けている地形、京都はまさに古代の天然の要塞でもあるのです。こうした理想の地が都市づくりに採用され、またその高度な防御性の為に京都が長年にわたり日本の中心地であったことも単なる偶然ではありません。そうした古代の重要な環境工学として風水が存在したのです。